ある衣装の物語
タラソワコーチやモロゾフコーチ御用達で、フィギュアスケート界に衣装革命を起こした言われるデザイナー、ナテッラ・ディンゼさんの2年前のインタビュー。アメリカ等で活躍した後ロシアへ戻り、現在はモスクワにアイス・スタイルというアトリエ(http://www.ice-style.com/)を開かれています。HPトップはソトニコワ選手のカルメンと、コフトゥン選手のチャイコフスキー衣装になっています。
文:クリスティーナ・ポリャコワ
写真:ナテッラ・ディンゼのコレクションより
(※一部抜粋)
― (タラソワとの)出会いについて伺えますか。
タチヤナ・タラソワが私をイギリスへ招いてくれました。当時イギリスでご自分のショーを主催していて、そこで初めてお会いしました。私のスケッチをタラソワが気に入ってくれたのです。一緒に仕事をする中で難しい局面ももちろんありました。私はいつも自分の衣装のビジョン、色彩、デザインを主張していましたから。ある時など、ショーのディレクターがタチヤナ・アナトリエヴナに「良い公演にしたいならナテッラを心穏やかなままにして、彼女の邪魔をしないように」とまで言って、タラソワは実際にそうしたんですよ(微笑)。
結局、彼女は私たちの共同作業にとても満足していました。ロンドンでは『シンデレラ』と『眠れる森の美女』を上演しましたが、とても美しいショーだったと思っています。つづいて『美女と野獣』をやりました。公演はロイヤル・アルバート・ホールで行われ、衣装はマスコミで高く評価されました。その後イギリスでイギリス人たちと仕事をし、『眠れる森の美女』のオーストリア公演をやりました。
― 傑出したチャンピオンたちの、歴史に名を連ねる傑作衣装があなたの手から生み出されました。そのリストは量的にも質的にも針が振り切れるほどで、あなたのスター・クライアント全員を書き出すには紙が足りません。その中でも、特に記憶に残っているのは誰でしょうか。誰との仕事が興味深かったですか。衣装制作のストーリーには興味深いプレリュードがありますよね。
そうですね、イリヤ・クーリックと仕事を始めたときから、実際にフィギュアスケート界で大きくてアクティブな創造的生活をしていますが、それと並行して常に舞台の仕事もしてきたましたからね。
名だたる選手たちにたくさんの衣装をつくってきましたが、私にとって最も記念碑的で価値があるのはもちろん、シズカ・アラカワ、アレクセイ・ヤグディン、ミキ・アンドウ、マイア・ウソワ/エフゲニー・プラトフ組との思い出です。これらの衣装は自分の顔を持っています。トップ選手たち個々人にスケッチを用意して、タチヤナ・タラソワがコーチをしているスケーター全員に着せました。アレクセイ・ヤグディンが彼女のもとでトレーニングしていた期間は、彼の全コレクションを私がつくりました。当時アメリカでは、ロシアのコーチや選手のもとにおびただしい数の外国人チャンピオンたちが合流していました。ブライアン・ジュベール、シェイ=リーン・ボーン/ヴィクター・クラーツ組、タケシ・ホンダ等が。およそ当時フィギュアスケート競技に名を連ねていた人たち全員と仕事をしました。
ジュベールが白いジャケットを着てリンクに出た有名な『007』の衣装は、拳銃のついた仕事着へと発展しましたが、私が特に誇りとするものです。この衣装にはとても満足しています。フランスのマスコミから衣装に関してインタビューを受けて、本当にとてもうまく行きました。
そう、コレクションにはそれぞれ独自の経歴があるのですよ。アレクセイ・ヤグディンが象徴的に「金」を勝ち取った『仮面の男』のオリンピック衣装には、とても面白いストーリーがあります。あの時は40枚ぐらいスケッチを描きました!そして最後になって、最終の仮縫いで私とタラソワは、レースや縫い付けていたものを引き剥がしたのです。胸に黄金の仮面がついた簡素な黒いコンビネゾンを残してね。デザイナー兼職人がコンビネゾンに仮面を縫いつけ、私の方は自宅でクッションとマネキンで。すべて手作業で仕上げられました。
そう、衣装を制作するにあたっての、つまり、やるべきことに自分の心を捧げるときのきつい仕事や、イライラや、心労は、賞やメダルで埋め合わせられるものではないのです。もちろん、自分の仕事が高く評価されるのは嬉しいものです。でも、それが最重要ではないということです。
熱中、それこそが私たちを動かします。当時はクレープ織(?)の生地がありませんでした。それで私は、たとえば、衣装の素材はオーブンで加熱していました。ボリショイ劇場からバレエの国際フェスティバルで賞を贈られた衣装ですがね。それはすべて実験に基づくもので、その頃の衣装は純粋な実験でした。私は基本的に“実験人”なのです。
私のスタイルを受け入れない人はたくさんいますし、それがなぜなのかも分かっています。私は注文を受けるとまず第一にこう言います。「音楽が命ずるままにやります。それが私です」と。私は音楽教育を受けていて、音楽劇を感じ取ります。別のやり方をすることは決してないでしょう。最近『カルメン』の注文が入ってスケッチを描いたのですが、クライアントは別のデザイナーのところで作ることに決め、結局カルメンは青い衣装で出場しました。これは私にとってナンセンスなのですよ。なぜなら、規範があるからです。私は自分のクライアントに忠誠をつくしますし、なにか美しいものを見るととても嬉しい。でも、青いカルメンは定義上不可能で、まったくの文盲です。
ある時からフィギュアスケートでは、社交ダンスのスタイルがせっせとコピーされるようになりました。美しいですし、何も反論できません。でも、あっちの肩ひも、こっちの肩ひもが目について…ある洒落た映画監督が言っていたように、寝室からお風呂へスケート靴で滑って行くみたいで(笑)。それが似合うものももちろんありますよ、特にタンゴのようなエスニックなナンバーなどはね。でも、ワグナーやビゼーということになれば、完璧にそれと分かるアプローチが求められます。そこにはどんな分派も、脱規範の片鱗すらありえません。完璧に具象的なものであるべきです。そういうわけで、ある人には気に入られ、ある人にはそうでないのが私のスタイルなのです。
ひとつ言えるのは、私はヤグディンの『仮面の男』、ジュベールの『007』と『マトリックス』、ミキ・アンドウの全コレクション、そして、その他多くの仕事に誇りを持っているということです。モロゾフとは非常に念入りに仕事をしました。素晴らしい美しさの、最高に美しいものが出来上がりました。ニコライにとても感謝しています。彼とは激しく言い争いますし、会話はしないかもしれませんが、実は私に任せてくれているのです。これこそ本当に価値のあることです。
- それは、シズカ・アラカワが2006年のトリノ五輪で優勝したときのフリープログラム『トゥーランドット』の衣装にまつわる有名なストーリーのことを仰っているのですか。
あの衣装をオリンピック用に作ったとき、私はすぐにニコライに言いました。流行りのものは何も作らない、きちんとした整ったものを作ると。ちなみに、その頃はちょうど肌を出すスケーターが多かった。パンツとブラジャーでね。そういうものを作るつもりはまったくありませんでした。山のような数のスケッチを描きました。あなたがすでに分かってくださっているとおり、私はとてもたくさんのスケッチを描いて、しかるべきイメージ探しに苦しむことがあります。
ニコライはいくつかの案を見て、あまり満足しませんでした。彼は何かもっと明るくて、注目を浴びるようなものを求めていました。ちなみに、彼が別の衣装を並行して作っていたことを私は知っていましたよ(微笑)。これはごく普通のことで、こうやって保険をかける人はたくさんいます。もちろん、それは私にとっていつも健康状態にも、心労にも影響を及ぼすことですが、そのときはすべてに対して目を閉じて、必然とみなしたとおりに作りました。
そして、ある素晴らしい日、ニューヨークでのこと。私はお気に入りのオートミールを食べようと朝早くカフェへ来ていました。私は普段から“自分の”スケーターの演技をリアルタイムで見ることはありません。ドキドキし過ぎてしまうので。そんなわけでまだ眠くて、カフェはがらんとして客はおらず、自分の席に座って静かにオートミールを食べているところへ、電話のベルが鳴りました。受話器からは「ナテッラ、私たちが優勝したよ!!!」という声が。コーリャ(※ニコライの愛称)でした。私は自分の耳を信じられないまま、がばっと立ち上がりました。店員たちがかけ寄ってきましたが、何が起こったのか理解できていませんでした。ちなみに「私が優勝したわ!!!」と叫んだのですがね(笑)。モロゾフは「ナテッラ、あなたが完璧に正しかった、すべてのボタンをかけた(※きちんとした、作法どおりの)私たちのシズカが、いちばん美しかった!」と言いました。それは私の人生で最も価値ある、感動的な瞬間のひとつでした。一気に鳥肌が立ちました。
― ええ、私も…
あれがいちばん貴重で美しいかもしれませんね。基本的にシズカの衣装コレクションはすべて素晴らしく、言葉では表せない美しさでした。彼女自身も美しい女性です。
さらに、マイア・ウソワとエフゲニー・プラトフのコレクションは本当にまたとないものでした。あの二人と仕事ができて幸せでした。彼女たちはいつだって素晴らしく着こなしました。素敵なカルメンや、有名なワルツがありました!私はマイエチカ(※マイヤの愛称)が大好き。彼女は私の友人で、かわいい子で、こんな人はめったにいません。私とタチヤナ・タラソワは二人のために素晴らしい演出をしました。タラソワは全くもってまたとないプロフェッショナルです。私たちが作り出したコレクションは、私が思うに、またとないものでした。今でも人々の記憶に残っています。コレクションが愛され、評価されることがいちばん嬉しいです。
― 衣装の構想から実現まで、普通はどれぐらい時間がかかりますか。
そうですね、いろいろですね。最初は何も描かず、ただ歩いて考えるだけかもしれません。実は、だからこそ、たくさんのスケッチが生まれることがあるのです。そして突然、何らかのとっかかりが現れます。
タチヤナ・アナトリエヴナとニコライ・モロゾフが私に習慣づけさせたことは、たくさんのスケッチを用意すること、入念にアイデア探しをすること、そして、最初はただリンクサイドに立って、選手が氷上でやっていることを観察することです。もちろん、スケーター自身が何を望んでいるかを必ず質問します。そのあと自分の案を出し、スケーターに示して、何らかの修正を加え、選手の希望に沿って付け足しをします。でも総体的には、抽象して、創作の勘がささやきかけることをやるよう努めます。
2年前のヴォロソジャル/トランコフ組の『スワン』のコレクションは素敵でした。今シーズンの二人の衣装は私のスケッチに沿って最後まで作られたものではなく、残念に思っています。『カルミナ・ブラーナ』のボルドーの衣装も私のデザインで、このコレクションには満足しています。『ロミオとジュリエット』のホワイトグレーの衣装も良かった。たくさんの衣装を私のスケッチに沿って仕上げているのが、裁断師兼デザイナーのエレーナ・ダニロワで、もう長年一緒に仕事をしています。同じように、モスクワにいる才能豊かな人たちとも一緒にやっています。
<出典>
露フィギュアスケート連盟公式季刊誌2013-2[7]号