ジョニー・ウィアー<ロシアはとても厳しい国>
彼がロシア
2014年10月27日
エレーナ・ヴァイツェホフスカヤ
(略)
― ロシア的なものへの傾倒をそれほど表に現すと、どこかでトラブルが起こったのでは?
もちろんです。それはまだ僕がプリシラ・ヒルコーチのところで滑っていた時代に始まりました。2001年に世界ジュニア選手権で優勝して、そのとき初めてバンクーバーのシニアの世界選手権でジェーニャ・プルシェンコの演技を見ました。SPで彼はボレロを滑りました。赤いビロードの衣装に金の刺繍がついていて、長い髪がやっぱり金色に輝いていて…それがあまりに素晴らしかったので、自分はまさにこう滑りたいんだということが何だかすぐに分かったんです。氷上でもっと表現豊かに、特に腕を使おうと練習するようになって、間もなくコーチからこんな声が聞こえてきました。「あなたの滑りがもっとアメリカ的だといいのに。バレエ的じゃなくて」
2つめの事件の舞台になったのはトリノです。ターニャ・トットミアニーナが僕の成功を願って「ロシア」と書かれた自分のジャージをくれて。僕はそれを脱がなかったんです。アメリカ代表チームの公式ユニフォームが恐ろしく気に入らなかったからという理由もありました。僕たちの間では、あれは酷かったと言われています。
当局側からクレームが来ましたが反応しませんでした。ええ、たしかに僕は幸運にもアメリカチャンピオンになって、オリンピックへ行く機会を与えられました。でも、だからといって、チーム内のポジションが自動的に僕をフィギュアスケート連盟やオリンピック委員会の所有物にしたり、僕がそこで望まれることすべてを果たさなければいけなくなった訳じゃないでしょ?
ちなみにバンクーバーでは、すべてがさらに悪くなりました。
― それは、あなたのコーチがロシア人だということと何か関係があったのでは?
というよりも、練習中に使う言葉がロシア語メインだったことですね。その方がズミエフスカヤコーチにとって心地よかったので。
それがアメリカの首脳陣のお気に召さなかったことは明らかです。僕への反感がどれほど進んでいたか、ショートプログラム前の最後の練習で分かりました。アメリカ代表チームから誰ひとり見に来なかったんですから。そのことが僕をひどく傷つけたとは言えませんが、でも十分なサインでした。
― エヴァン・ライサチェクと対立していた時期は、かなり厳しいものでしたか?
僕たちは常に難しい関係にありました。まさに世界ジュニア選手権で僕が1位になって、エヴァンが2位になったときからです。その後アメリカのマスコミは常に、何かにつけて僕たちを衝突させようとし始めました。もしかすると、ジャーナリストたちは単にライバルというテーマを刺激したかっただけかもしれません。ちょうどプルシェンコとアレクセイ・ヤグディンを取り巻いていたようなテーマをね。もちろんそれは圧力になりました。僕自身はまったくそこに参加したくなかっにもかかわらずです。ライバルに敢えて汚い言葉を吐くには、フィギュアスケーターの人生はあまりに過酷だということを、僕はよく知りすぎています。このドロドロにはまり込んだからには、そこを汚す必要はありません。
― ロシアで最も有名な水泳のコーチのひとりが、自分の生徒のことを「チャンピオンの座を争うには、あまりに思いやりがあって良い人すぎる」と言ったことがあります。もしかすると、あなたが成功できなかったいくつかの点は、まさにその生まれ持った性質に由来しているのでは?
そうかもしれません。ソチ五輪前、プルシェンコが現役復帰することについてコメントを求められらたとき、僕はこう言いました。これほど猛然と闘う能力のある選手を誰ひとり知らないとね。僕がそうだったことは一度もありません。スケートが楽しかったし、勝つことが楽しかったし、ノーミスの演技ができると楽しかったけれど、タラソワが好んで言う「出て、倒れて、死ぬ」までやれたことは一度もありません。ええ、2~3回はできましたよ。でもそれは、むしろ例外です。
― バンクバーで何が起きたのですか?
オリンピックが始まる前にもうはっきり分かっていたんです。もし僕がショートとフリー両方で最高にクリーンな4回転ジャンプを跳んだ場合でも、チャンピオンになることはないとね。
― なぜですか?
なぜなら、アメリカの連盟が僕ではなくエヴァンを支持していたからです。彼こそが連盟の“顔”でした。ちょうどソチでグレイシー・ゴールドがその“顔”だったように。彼女の苗字がゴールドだというだけの理由でね。ライサチェクはみんなにとって都合が良かったんです。僕と違って決して誰とも議論しなかったし、自分の見解を主張しようとしませんでしたから。
もうひとつの問題は、アメリカでの僕の人気がはるかに高かったことです。僕は自分のテレビ番組の司会をしていて、こういう形で自分のやっている競技の人気を高めて、あちこちから引き合いがあると思うと楽しかった。ちなみに、オリンピックの準備はとてもうまくできました。ショートもフリーも素晴らしい滑りができましたし。あれは僕の人生最高の滑りだったと思います。でも、6位に終わりました。転倒した選手にすら負けたんです。
― そのオリンピックでエヴァンが優勝して、どう感じましたか?
その滑りを僕は見ていないというのがパラドクスですね。自分が滑った最終グループの中で見ることができたのは、プルシェンコだけ。僕の滑走は最後から2番目で、彼の前でしたから。もしジェーニャが4回転を跳んで、それ以外のエレメンツでミスをしなければ、優勝すると確信していました。彼のそれまでの功績をジャッジが考慮に入れないわけにはいかないだろうと思ったんです。
ライサチェクの演技を初めて見たのはもうオリンピックが終わってからで、YouTubeに動画が出てきたときでした。エヴァンがこれほど良い滑りをしたことは未だかつてなかったと言えます。でも、バンクーバーの地で僕はとても打ちひしがれていました。負けてしまって、そのうえジェーニャも負けてしまって、そして…総じてとても惨めな夜でした。僕はほとんどすぐに舞台裏へ引っ込んでわっと泣き出しました。もう自分の中にしまっておけないというものが、あまりにたくさん燻っていたんです。そこで、カーテンの後ろにいた僕をズミエフスカヤコーチが見つけました。僕を自分のミンクのコートでくるんで、それからドーピング検査が終わるとオリンピック村へ連れ出して、「マクドナルド」のマックフライポテトを部屋へ持ってきました。そして二人でそのフライドポテトを食べて、自分たちのオリンピックを悼んで泣きました。
― プルシェンコがソチ五輪の個人戦に出場できると信じていましたか?
フィギュアスケートというビジネスでは、言葉が総じて何の意味も持たないことがよくあります。でもジェーニャは特殊なケース。もし彼が何かの約束をしたら、その約束を守るために何でもするだろうと信じていていいんです。だから、実際、彼が本当にオリンピックに出るつもりだということを少しも疑いませんでした。団体戦では素晴らしい滑りをして、彼をただただ誇りに思いました。それがショートプログラムの前には、動くのが痛いことがもう明らかでした。
やりたいことがあるのに身体が言うことを聞かないというのは、本当に辛いことですよね。でも、少なくとも僕の場合、脇から見ることの方がもっと辛かった。次のオリンピックでは…と強く願っています。だって、なぜ彼がそこへ行こうとしているか分かりますか?多分ジェーニャは、そうやってソチで起こったすべてのことをただ埋め合わせたいんです。
(以下略)
<原文>
http://www.sport-express.ru/newspaper/2014-10-27/16_1/?view=page
<自習メモ>
пример 例
не в пример (比較級と)はるかに
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