<オリンピックは予測不能>ヴィクトル・ペトレンコ
オリンピック特集番組もどんどん増えてきましたね。
そんな中、男子シングルの注目選手として紹介されているのは
今のところ日本人3選手と、プルシェンコ、ジュベールだけの模様。
でも、ペトレンコとオーサーはランビエルの名前を挙げているし
他にもアメリカ3選手、チャン、ヴェルネルもいるのに……
と不満を抱きつつも、ワクワク、そわそわしている今日この頃です。
2010年2月6日
タチヤナ・ゲイフマン
オリンピックはいつも予測不能
ヴィクトル・ペトレンコが1992年のアルベールビルで金メダルを勝ち取り、そこから我が国のオリンピックの連勝が始まった。94年のウルマノフ、98年のクーリック、02年ソルトレイクシティのヤグディン、そして06年トリノのプルシェンコだ。最近になって、再びヴィクトルの姿を「キス・アンド・クライ」(フィギュアスケーターがジャッジの得点発表を待つ場所)で見られるようになった。しかし、今度はコーチとしてだ。
自分の生徒のこと、コーチとしてどうしているのか、彼にとってオリンピックとは何か、ヴィクトル・ペトレンコがタリンで行われたヨーロッパ選手権の折、当紙記者に話してくれた。
― あなたの生徒クセニア・マカロワはヨーロッパ選手権で9位になりました。この成績はお祝いできるものですか?それとももっと上を狙っていましたか?
クセニアにとってこのようなレベルの試合は初めての経験で、予測するのは難しかしいことでした。主要な目標として立てていたのは、良い滑りをすることでした。クセニアは戦ったと思います。もちろんもっと良い演技をすることは出来ました。でも、初めてとしては立派な結果だと思っています。それに、彼女のシーズンはもう8月のジュニア・グランプリシリーズから始まっていました。ジュニアとシニアとでは、フリープログラムで要求されることが異なっていて、プログラムの長ささえ違います。それで私たちはプログラムに少し変更を加えなくてはなりませんでした。
― あなたのもう一人の生徒、ナタリア・ポポワはフリープログラムに進むことができました。これは成功でしょうか?
私たちは彼女の演技に満足しています。まず第一に、このように高いレベルの国際試合は彼女にとって初めてでした。少しつまずき(?)ましたが、でも初めてとしては…私たちは何を練習するべきか分かっています。ミスも見えていますが、進むべき方向も見えています。彼女はまだ16歳です。
― アレクセイ・ミーシンは次のような信念を持っていると言われています(?)。才能のある女の子1人よりも、中ぐらいの男の子10人の方が良い。女の子と仕事をするのは大変だと…あなたはどう思われますか?
アレクセイ・ミーシンには、私よりも多くの経験があります。女の子だけでなく、男の子とも仕事をしてきた経験がね。私はレッスンから満足を得ています(楽しんでレッスンをしています)。クシューシャ(※クセニアの愛称)は文字どおりどんな言葉も注意も聞き漏らさないようにしていて、何の問題もありません。他の生徒も同じですよ…
― コーチの仕事へ移行するのは大変でしたか?
とてもスムーズでした。私はガリーナ・ヤコヴレヴナ・ズミエフスカヤを手伝うことから始めました。彼女には豊かな経験があります。妻のニーナも長い間コーチの仕事をしています。ですから私には、難しいケースになった時いつでも相談できる人がいて、何に注意を向けるべきかヒントを与えてくれる人が常にそばにいて…スポーツ選手が自動的に良いコーチになるわけではありません。自分で滑ることとはまったく違うんですよ、まだ出来ない人に教えることとは…
― あなたは同時にISUのテクニカル・スペシャリストでもあります。コーチの仕事とどのように両立しているのですか?
利益の衝突が起こりえる試合や、自分がトレーニングを担当している生徒が出場する試合では、ジャッジすることはできません。一方、最近のあらゆるルール変更についての知識は、コーチの仕事に役立ちます。フォローできない可能性のある細かいニュアンスが、しょっちゅう出てきますからね。
― あなたの選手時代にはまだコンパルソリーがありました。多くの専門家たちは、コンパルソリーが無くなったことで土台となる滑走の熟練が失われ、エッジで滑ることや、エレメンツを行うことを生徒に教えるのが難しくなったと考えています。あなたはこの主張に賛成しますか?
もちろん、一週間のうちの多くの時間をロッカーとカウンターに費やせば、これらのターンをプログラムで使うことは遥かに易しくなるでしょう。私たちがいま直面しているのは、選手たちがスケート靴を十分に操れないために、ジャンプに問題が生じているということです。つまるところ、フリップとルッツにおける多くの不正エッジや、回転不足です。
― 現役時代のあなたは、身のこなしが非常に際立っていて、特別なスタイルを持っていました。ご自分で何か考案していたのですか?それともすべてディレクターの指示だったのですか?
振付師がプログラムを作り、次にプロデューサーとコーチが一緒に磨きをかけ、それぞれの動きを完全なものにしました。でも私自身は何も考案しませんでした。
振付師が「あなたは観客とコミュニケーションしなくてはいけない」と言い、私は自分の中にプログラムを通し込んで、そして会話して…
― 自分が試合に出るのと、教え子の滑りを見るのと、どちらの方が楽ですか?
自分が出場するときは、自分でプロセスをコントロールしますよね。何かは成功して、何かは失敗して…一方リンクサイドにいるときは、もう何も影響を与えることはできず、ただ立って、耐えるだけです。選手のためにその同じプログラムをこなすわけです。
― あなたの生徒さんたちの話に戻しましょう。ジョニーの調子はいかがですか?彼は全米選手権で優勝できませんでしたが、代表チームに入ることはできました。
彼は満足しています。主要な課題はオリンピック代表チームに入ることで、彼はその課題をこなし、最小限のプログラムを行いました。次のステップはオリンピック。予測不能な大会で、多くの興奮(緊張、イライラ)があります。毎年行われる世界選手権と違って、五輪は4年に1回ですからね。私たちは五輪のようなレベルの試合を首を長くして待っているのですから、面白いものです。
― ジョニーはオリンピックで4回転ジャンプを跳びますか?
彼はずっと前からトレーニングで準備しています。見てみましょう。
― 最後にもう1人、あなたの生徒さんのことを質問させてください。実際、あなたのところには短期間しかいなかった人ですが。なぜステファン・ランビエルの引退を思いとどまらせなかったのですか?
彼は復帰しましたよ。
― 復帰はしましたが、それは彼自身が身体の具合が良くなったと感じ始めたからです。当時の彼は、手助けしてくれるセラピストが見つかるかもしれないことを知りませんでした。
当時、それは彼の決断だったのです。私は彼にこう言いました。「オリンピックまでそれほど時間は残っていない。もしこの機会を逃して、オリンピックを見送ってしまえば、一生それを背負って生きることになる」と。夏に日本のショーで会ったときには、ステファンの滑りを見て、やはり君は決断を変えてもう一度自分を試すべきだと助言しました。彼がその通りにしてくれて嬉しいですし、きっと私の意見も影響を与えたのでしょう。
― ステファンは秋にこう言っていました。1回目のオリンピックは喜びで、2回目はナーバス、そして3回目は想像を絶するものだと。あなたも3度のオリンピックを経験されていますが、このような意見をどう思われますか?
同意します。1回目のオリンピックはスポーツの祭典、2回目は責任、そして3回目はもう自分自身との闘いです。
<原文>
http://www.championat.ru/other/_skating/article-48784.html
<自習メモ>
с неда'вних пор つい最近から
с неда'внего вре'мени (同上)
достиже'ние 到達すること/成果、成績
лови'ть каждое слово 一語も聞き漏らすまいとする
пла'вный 流れるような、滑らかな、スムーズな
пла'вать 泳ぐ
обрати'ть внимание 注意を払う
ждать с нетерпе'нием 首を長くして待つ、待ちわびる
надеюсь (挿入語)《確信を表す》きっと…でしょうね
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