ママを置いている店はない(1)
原題は《Нет такой лавочки, где продаются мамочки》で
「母親を売っている店はない」→「母親はお金では買えないものだ」
という意味だと思うのですが、あまり自信がありません。
ロシア語に詳しい方がいらっしゃったら、教えて頂けるととても有り難いです。
後半はウルマノフ、ヤグディン、プルシェンコのママの話が続きます。
スケーターの成功は、彼が育つ環境にかかっていると言ってもよい。
とりわけ母親の役割は大きく、その助けと支えなくして成功はない。
彼女たちが時として示す勇気のすごさと言ったら!
こどもの人生をスポーツに捧げると決めたら、親たちはどんな道を通ることになるのか。コーチ、選手、そして彼らの母親たちが語る。
アレクセイ・ミーシン
(ロシア国家功労コーチ)
どの選手にとっても、すべては母親から始まる。時には祖母の場合もあるけれど。例えば、アリョーシャ・ウルマノフをリンクに連れてきたのは祖母だった。母親・祖母というのは原則ではない。父親かもしれないし、祖父かもしれない。私の母がいつだったか、こんなことを言った。「ママを置いている店はないのよ」と。自分の教え子たちの両親を見るとき、私はこのフレーズをよく思い出す。
イーゴリ・モスクヴィン
(ロシア国家功労コーチ)
私はアリョーシャ・ミーシンの母親のことを思い出す。彼女はすべての保護者会のメンバーに入り、何にでも興味を持ち、並々ならぬ積極性を発揮した。彼女をチームの代表として試合に派遣することもあったほどだ。彼女は皆に先駆けて出発し、すべてをきちんと整え、書類やホテルの手続き等すべてをこなした。
非常に多くのことが母親たちの手によって支えられてきた。そう、まず第一に、様々な場所で開かれる試合の運営だ。審判にとにかく何らかの支払いをするため、彼女たちは資金を集めた。なにしろ試合は長く、屋外で行われたのだから。貧しい審判たちは一日中リンクに立ち、凍えていた。音楽家にも支払わなければならなかった。親たちは自らの手で製氷した。自分のこどもをより良く見せるには、良い氷が必要だったのだ。ホウキとスコップを手に、すべてをきれいにした。母親たちはあらゆるパーティーや祝賀会を運営し、食卓の準備をした。
だが、これは今も同じだ。「ユビレイヌィ」に来て真っ先に目に入るのは母親たちの姿だ。現在は、こどもたちのリンクに特別なガラス張りのスペースが作られ、イスが置かれてはいるけれども。一度このガラスが塗りつぶされたことがあるが、彼女たちはその隙間を引っ掻き、やはりのぞき見ていた。もちろん、彼女たちがこどもと一緒にいて何をしているのか、こどもが氷の上でどのように感じているかを見るのは興味深い。しかしもうひとつ、とても重要な事情がある。こどもに非常に多くの力とエネルギーを注ぎ込んでいるこの親たちは、もう何ヶ月も自分のこどもの姿を見ていないのだ。合宿や、試合や、ツアーのために。これは簡単な(軽々しい)ことではないと思う。
(写真)
1.アレクセイ・ミーシンと母タチヤナ・ワレンチノヴナ
2.アリョーシャ・ウルマノフと祖母アグリッピーナ・パヴノヴナ
3.アリョーシャ・ミーシンと父ニコライ・イワノヴィチ
4.イーゴリ・ボリソヴィチ・モスクヴィン
5.アレクセイ・ウルマノフとミーシンコーチ、母ガリーナ・ウラジミロヴナ
6.エフゲーニー・プルシェンコと母タチヤナ・ワシリエヴナ
7.ジェーニャ・プルシェンコとミーシンコーチ
アレクセイ・ミーシン
私は幸運だった。私がフィギュアスケートを始めた頃、我が国はこのスポーツの復興の時代に入っていたからだ。まずピオネール(※1)宮殿が、レニングラードにおけるフィギュアスケートの中心地のひとつとなった。アニチコフ宮殿(※2)のことだ。本邸前の庭の中心は、大きな花壇で占められていた。それを取り囲む通路は、冬になると水浸しになった。その氷をフィギュアスケート部の子どもたちが占領したのだ。
ちょうどその頃、ネフスキー大通りを歩いていた父が、花壇の周りでスケートをしている子どもたちを見た。父はこれを大いに気に入った。さらに、その周囲にたくさんの親たちがいたことも良かった。「親がたくさんいるところでは悪戯が少ない」からだ。こうして、父は私をフィギュアスケートの世界に入れた。
(続く)
※1:共産党の少年団のこと
※2:19世紀、アレクサンドル3世によって建設された美しい邸宅
ネフスキー大通りに面している
2月革命の発砲事件の舞台にもなった
リュドミーラ・チェルニショワ著『アレクセイ・ミーシン 6.0』より抜粋
「LЁD」7・8月号82~85ページ
<「LЁD」7・8月号目次>
http://icesymphony.org/icenews/led8/

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